近ごろ巷で「レンタル」なる概念がますます幅を利かせておる。じつを言えば、わたしなどは「レンタル」と聞くたび、かれこれ数十年前に映画のビデオテープを近所の貸し出し屋で借りたときのことを思い出して、こっそりと苦笑する。いまどきの若者はビデオテープどころか、DVDすら古びた遺物らしい。いやはや、時間の流れというものは、このわたしの頭髪を白くするばかりでなく、世の中の所有観念をもひっくり返してしまうから始末に負えない。
かつては「自分で所有する」ことこそが、一人前の大人としての証であり、財産を蓄えることが尊ばれたものだ。祖父母の代なら田畑を、親の代なら自宅や車を持つことで、家族や世間から「よくやった」と背中を押してもらえた。だが、いまやどうだろう。その「所有」は、もはや古風な頑固者の勲章のように見えることさえある。絵画も車も工具も、それこそスーツケースや季節外れのストーブまで、必要なときだけ借りて、用が済んだら返す。そのほうが軽やかで、無駄がない。なにより、「持たない」ことによって、私たちはかえって豊かになっているような気がするのだ。
この「豊かさ」というのは、もちろん金銭的な尺度だけではない。試しに考えてみるがいい。所有というものは、なにかを手に入れた瞬間、それを維持し、管理し、しまいには処分する手間までも背負い込む。知人に譲る、リサイクル業者に渡す、はたまた「断捨離」なる手品めいた言葉で気合を入れてゴミ袋に押し込む。その一連の心労を思うたび、「最初から借りておけばよかった」と肩を落とした経験が、あなたにもあるはずだ。それに比べ、借り物には、「返す」という明快な終着点がある。まるで人生の借景のように、ある時間だけ手元で輝き、その後は風のように去っていく。その潔さは、貸し借りの中でささやかに踊る「自由」を感じさせてくれる。
おまけにレンタルは、我らを「所有する喜び」から「自由に触れる歓び」へと導く。一度借りたスキー板で雪山を滑り降りる爽快感、レンタルの楽器で音色を確かめるときの新鮮なときめき、あるいは一晩だけ借りた高価なドレスを着こなしてみせる高揚感。所有するとなれば、まずは資金を工面し、狭い自宅の収納を悩み、そして何度使うかわからぬ品に囲まれてため息をつく羽目になる。だが、借り物であれば、「とりあえず試してみる」という冒険心が芽生え、好奇心が湧き立つ。これは人生の味わいに深みを添えるスパイスであり、懐中時計ならぬ「懐中レンタル精神」を、我らは小さな胸ポケットに忍ばせておくことができる。
かくして、非所有という考え方は、わたしたちを軽やかにする。無駄な荷物を背負わず、人生の奇妙で豊かな寄り道を楽しむ余裕を与える。おそらく、これからの時代、人々は所有よりも体験を追いかけることに躍起になるだろう。「借りる」という行為には、試行錯誤を許す寛容さがあり、所有にはない柔軟性がある。そこには思わぬ出会いや発見が紛れ込んでいる。七十路を越えた老作家がこんなことを言うのは気恥ずかしいが、それこそが、借り物人生を楽しむ洒落た哲学というものではないだろうか。
レンじい(連山錬三)