定時になった瞬間、私は職場を飛び出した。駅に向かう人々の間をすり抜け、電車で2駅移動し、パンプスが脱げないよう気をつけながら目的地に向かって走った。ヴィレッジヴァンガードに行かねばならない。急いで行かねばならない。すでに遅れをとっている。今日はおろちわんの限定もふにょろキーホルダーの発売日なのだ。
店内に駆け込み、キャラクターグッズのコーナーに向かう。「おろちわん」とは、最近SNSで人気が出始めたばかりの、犬と大蛇を掛け合わせたキャラクターである。その姿を一目見た瞬間、私は恋に落ちた。愛らしい犬の頭に大蛇の長い胴が合わさって、その歪さが絶妙に可愛い。人気といってもまだ知る人ぞ知る存在で、グッズ展開も小規模。今回の限定もふにょろキーホルダーも数量限定、ヴィレヴァンのみの取り扱いだ。
私は心臓をバクバクさせながらコーナーを隅々まで見回した。しかし、それらしきものがどこにも見当たらない。どうやら、完売してしまったようである。やはり仕事が終わってからでは遅かった。有給を取ろうかと思ったのだが、課長に嫌な顔をされる気がして言い出せなかったのが悔やまれる。
一応、店員に確認してみようかとも思ったが、「おろちわんの限定もふにょろキーホルダーありますか?」なんて大の大人が口にするのは、なんだかものすごく恥ずかしい。気にしすぎなのはわかっている。私はいつもそうなのだ。余計なことばかり考えて、言いたいことを言えずにいる。
仕方なく帰ろうとしたそのとき、ふと目に入ったものがあった。
「言いたいことも言えないそんな世の中じゃ、ポイズン。」
ヴィレヴァンをヴィレヴァンたらしめる、黄色い台紙の手書きポップ。そのすぐ下にあるのは、「本音レコーダー」という商品。
本音レコーダー。なんだか無性に気になった。パッケージにはICレコーダーのような写真が載っている。箱を手に取り裏面を見てみると、「本音を録音しておくと、相手に言いたいことが言えるようになる不思議なICレコーダー」と説明が書かれている。おそらくジョークグッズなのだろうが、言いたいことが言えるようになる、という文言につい心惹かれてしまった。何も買わずに帰るのは癪だし、「在庫処分価格」「ラスト1点」というシールも後押しとなって、私はその本音レコーダーとやらを買って帰ることにしたのだった。
翌日。おろちわんのキーホルダーを買えなかった悲しみを引きずりながら出社すると、「これ、営業からです」と、隣の席の安達さんが資料を渡してきた。「あ、どうもです。」と答えながら、私は安達さんの横顔をこっそり眺める。安達さんは去年中途で入社してきた、おそらく私と同じくらいの年齢の女性だ。隣の席になって随分経つが、お互い仕事以外のことで話しかけたりはしない。変に気を遣わなくていいので、人付き合いが苦手な私としてはありがたい限りだ。
安達さんは、どっしりと落ち着きながらもどこか清涼感もある、森の奥深くに佇む一本の大木みたいな人だ。口数は少ないが、間違っていることは間違っていると主張する。以前、安達さんのほんの小さなミスを課長がネチネチ追及し、そのついでに「女性なのに化粧もろくにしないで」みたいなことを言ったとき、安達さんはすかさず「課長、それは関係ないと思います。セクハラです。」ときっぱり言った。あれは痛快だった。私なら絶対にそんなことは言えない。
そんな安達さんだが、私だけが知る一面もある。先日、安達さんがバッグからポーチを取り出したとき、一瞬見えた。そのポーチ、なんと「おろちわん」だった。こんな近くにおろちわんファンがいたことに、私は驚き、歓喜し、密かに盛り上がった。勢いで「おろちわん好きなんですか?」と聞きそうになったが、素っ気なくされたらショックだし、雑談を解禁するとこれまでの安定した関係が崩れるかもしれない、そう思うと言えなかった。心労を増やしたくはない。黙々と仕事をして、お給料をもらって、家に帰って一人おろちわんを眺める、私はそれで満足だ。職場に友達はいらない。
昼休み、私は一人でいつもの定食屋へと向かった。言えない、といえば、この店でもそうだ。職場から近く、それほど混雑していなくて、安くておいしいお気に入りの店。しかし、ひとつだけ困っていることがある。常連になってからというもの、店主のおじさんが「これサービスね」と食後にイチゴを出してくれるようになってしまったのだ。なってしまった、というのは、私はイチゴが苦手なのである。厚意で出してくれるが故に断れず、いつも無理やり食べている。伝えたいが、どうしても言い出せない。
定食屋の前まできたところで、ふと昨日買ってバッグの中に入れっぱなしになっている本音レコーダーのことを思い出した。隣の公園に移動し、ベンチに座ってそれを取り出してみる。手のひらに収まるサイズで、全面シルバーのシンプルなデザイン。「REC」という赤いボタンが一つだけある。説明書には、「RECを押して、本音を録音する」とある。私は試しに思いの丈をぶつけてみた。
後編はこちら↓
本音レコーダーと新しい友達
https://www.rentalism.jp/note/738/
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