レンタルのローム のノート

ビジネスシーン、教育・保育現場、高齢者福祉の現場でお役に立ちまくっている、レンタルのロームのノートです。

Home » レンじいの連載 » 物語を染み込ませる時間

物語を染み込ませる時間

calendar

いやはや、手のひらから何もかもがするりと抜け落ちていくような気分ってのは、わしにも時折訪れるもんだ。そりゃあレンタルってやつは、我々を物質的な重荷から解き放つ見事な仕組みさ。だけど、その代償として妙な浮遊感、儚さとでも呼ぶべきもんを、ふと感じさせることもあるんだよねぇ。

思い出すのは、昔、わしの祖父が愛用していた古い机のことだ。長く使い込まれて、あっちこっちに傷がついていたんだが、その傷一つ一つが祖父の人生を語っていた。特に机の角がわずかに欠けていてね、祖父はいつも懐かしそうに、「これはお前の父さんが小さかった頃につけた傷でなぁ」と笑いながら話してくれたんだ。あの傷がただの欠け目じゃなく、我が家の小さな歴史の断片だったわけだ。

物を所有し、長い年月を共に過ごすことで、そこには物語が刻まれる。確かに「モノの重み」ってのは荷物にもなるが、その分、我々のアイデンティティを縫い合わせる大切な糸でもあったわけさ。祖父の机だって、ただの木製の道具じゃなく、わしら一家の魂の一部を宿していたようなものだ。

ところがレンタルという世界では、そうした物語を染み込ませる時間がない。借りて、使って、返す。その繰り返しで物は常に綺麗で無個性な状態を保たれる。そりゃあ合理的で気軽だが、どこか寂しさも漂う。まるで「傷」を通して芽生える人間くささや歴史、その温もりが抜け落ちてしまうような感じがするんだよ。

とはいえ、この虚無感をただネガティブに捉える必要もなかろう。禅の考えじゃ「空」ってやつも豊かさの一種とされているし、執着を手放せば、今まで見えなかった景色が広がる可能性だってある。モノに縛られずに生きれば、身軽になれるのは事実だ。けれど、わしは完全なる「非所有」の世界に身を置くことには、まだどこかためらいを覚える。人生にはどうしても、自分だけの物、自分だけの物語が必要じゃなかろうか。値打ちもんである必要はない、古いノートや長年使ったペン一本で十分だ。そこには所有者と持ち物が紡いだ「時」が残されている。

結局のところ、わしらは所有と非所有の間を揺らぎながら、新しい生き方のバランスを探し続けてるんだろう。虚無感を抱えつつも、その中に新たな意味を見いだそうとする。それが現代という時代を生きる宿命なのかもしれないねぇ。

祖母の着物、父が愛した万年筆、母が残した料理の手帳。そうした所有物たちは、単なるモノを超え、大切な人々の存在証明であり、記憶の依り代だったのさ。あの頃は、所有することで物に魂を吹き込み、物語を織り込んでいたんだ。それに比べれば、レンタルの形態は生を軽々しく、流動的にしてくれるが、その分、深い孤独のようなものを忍び込ませる。根を持たない植物のような不安定さを感じることもある。

それでも、人間ってやつは逞しいもんで、非所有のなかにも新たな喜びを探し出す。人と物の関係が軽くなれば、意外な邂逅や自由が顔を出すだろう。そういう意味じゃ、非所有はまるで能面みたいに二つの表情を持ってるようなもんだ。表側は晴れやかな笑顔、裏側はしんみりした涙。その二面性があるから人生には深みが増す。

齢を重ねたわしには、それが月の満ち欠けみたいに自然なことに思えるんだよ。喜びと悲哀、光と影。それらが交互に顔を出し、人生という織物の模様を織り上げていく。その中でわしらは、物を所有する意味も、非所有による解放感も、味わいながら生きていくんだろうな、なんてね。

レンじい

folder チョコレートファウンテン

チョコレートを食べる、仕事でね。
more...